パウダースノーの朝

作/ 星 マリナ

ドアをあけると、タポのなかにつめたい空気が一気にながれこんできた。超高速ジェット機とヘリコプターの機能をあわせもった個人用のその小さな乗りものは、形がオタマジャクシに似ていることからTadpole(タッドポール)という商品名がついているのだけれど、いまいち発音しにくいことからタポとよばれていた。
ミカは雪山の頂上でタポをホバリングさせると、なれた手つきでスノーボードを装着し、ほどよくつもった新雪のうえに飛びおりた。手にもったリモコンでドアをしめる。
だれもいない斜面を見おろす。ノーズを下にむけると板がすべりだした。いきなりバランスをくずして頭から雪につっこんでしまったけれど、そのまま一回転をして起きあがる。ひとりで照れ笑いをしながら、ゴーグルの雪を手ではらってすべりつづけた。
以前何度もすべったことのある斜面で、危険な場所はこころえている。なだれのさいに一時的に空中にうかぶ風船とGPS発信器のついた救命ベストも身につけている。音のない世界。今、自分に一番ちかい人間は、ここから何キロはなれているのかしら。
いくつかの大きなターンとたくさんの小さなターンをくりかえす。途中で小さなエアーが1回だけきまった。口元がほころぶ。頬がつめたいのにとろける感じ。 山のふもとについて、足が痛いことに気づいた。これだけひさしぶりなのだからね。筋肉もよろこんでいるにちがいないのだった。
頂上を見あげると青い空と半分雪にうもれた木々がうつくしい。絶対にだれにもいわないと仲間と約束したこの山は、今もまだシークレットのままのようだった。彼らがすべるであろうコースを、想像のなかで描いてみる。そしてその景色に見いったまま、大きな深呼吸をする。
ミカはリモコンをもつ右手を高くあげてタポをよぶと、ドアをあけてそれに乗りこみ、もう一度頂上へとむかった。それを3回くりかえした。
最後のランがおわってタポに乗りこむと、ミカは極薄のスノーボードウエアをぬいだ。下はノースリーブのシャツにカプリパンツという夏服だ。腕時計を見て「あ、大変。もう行かなくちゃ」というと、タポを操縦して急いで北にむかった。

太平洋の上空、赤道のそばでボーダー・パトロールのタポがうしろから近づいてきた。ミカのオレンジのタポと、パトロールの濃紺のタポは、海の上10メートルのあたりでとなりあってホバリングする。それぞれ4セットあるブレードは静かにまわり、会話のさまたげにはならないのだった。
パスポート出して」と青い制服をきた白人の若い男はいった。
ミカは、窓から神妙にパスポートカードをさしだした。あつい空気がタポをみたす。
南半球には、何日滞在していたの?」
3時間ですぅ」と、ミカは意識して高めの声をだし笑顔でこたえる。
男はミカの顔と写真を見くらべた。それからカードをスキャンして、犯罪者でもテロリストでもない低リスクの旅行者であることを確認した。
きみ、スピードだしすぎだから」
す、すみません。ちょっと急いでたので。でも、そんなにでているとは気づきませんでした。このあとは気をつけます!」できるだけかわいい声であやまってみる。
で、3時間で何してたの?」男が問う。
は? 観光です」ちょっとあわててミカは返事をする。
スノーボードもって?」
あ、失敗。
お金持ちのお嬢さんが、ヒマだから南半球にスノーボードしに行ったってわけ?」
ええ、まあ……」
そう思ってもらったほうが都合がいいかも。
どこに行ってたの?」男がきく。
えーと。ホワイト・バニーです」満面の笑みのままこたえる。
まさか北半球からわざわざタポでホワイト・バニーには行かないよね。あんな初心者用のゲレンデには。いくらヒマなお嬢さんでも」
この人、スノーボーダーだった?
男がもう一度きく。「で、どこに行ってたの?」
ミカは少し考えてから真顔でこたえた。「だから。ホワイト・バニーです」
見つめあう3秒のあいだに立場が逆転したことに男も気づいたようだった。わずかに目をそらせたあと、ミカのパスポートをかえしてきた。「今日のところは、いいよ」
ミカはそれをだまって胸のポケットにしまった。
じゃあ、いつか山で会ったら、きみのあとについてすべらせてもらおうかな」ちょっと弱気な声で男がいう。
ミカはそれまでとちがう種類の笑顔で「もしも会ったらね」というと、窓をしめてタポを進めた。時計を見て「わ、まにあわないかも!」と声にだした。パトロールのタポが、あっという間に遠くなった。

ビルの屋上に着陸し番号をおすと、タポは指定の立体駐車場におさまった。初夏の太陽が、ほぼ真上からミカをてらしている。エレベーターをまつあいだに、近くのビルにオフィスをかまえる従兄に電話をした。
今かえったから。板は入れっぱなしなの。あしたの朝とりにくるから、それまでおいといて」と早口で報告する。
おう。どうだったよ、おまえの秘密の雪山は?」電話のむこうで、小さいころから仲のいい従兄がきく。
よかったよー。パウダー。おにいちゃんも、ときどきは自然にふれたほうがいいよ」
おれは、仕事が忙しいんだよ」
私だって忙しいよー」
ま、そうだな」
でも、ハッピーな女が多いほうが、世の中があかるくなっていいでしょ? 私、これ、世の中のためにやってるんだからね。いっとくけど」
はい、はい。ご苦労さまです。おれもうれしいよ。おまえの社会貢献に協力できて」
ありがと。もつべきものはリッチな従兄だね。またいつか貸してね、タポ」
今度は、もっと早くいってくれよ。その日の朝じゃなくてさ。会社用なんだからな、一応」
はーい。今朝は突然行きたくなっちゃったんだけど、次回はもっと早くいうね。あ、エレベーターきた。わー、もうこんな時間? じゃねバイ」

エレベーターをおりると、熱と紫外線をとおさない透明なプラスティックのチューブのなかの、高速で幅のひろい動く歩道に飛び乗った。走るのはマナー違反なのだけれど、しかたがない。途中の乗りかえ地点ではダッシュした。クーラーはきいているものの、汗がでてきた。
目的地につくと、いつものように人があつまっている。そのなかに知り合いを見つけてミカは上品に会釈をした。
ちょうどそのとき、ドアがあいて子供たちがでてきた。年長組の男の子と、年少組の女の子は、ともにミカを見つけるとうれしそうにかけよってきた。
男の子がさしだしたのは、アイスキャンディーのスティックでつくった飛行機だった。「これ、ママにあげる」
どうもありがとう」といってミカは息子をきつく抱きしめ、内心「はぁー、まにあった」と安堵した。
つかれたという娘を左手で抱き、右手で息子の手をにぎり、慎重に動く歩道にのった。「よーく足元を見るのよ」
耳元で娘が、今日幼稚園でならったウサギの歌をうたってくれる。
子供たちのおやつと、夫をふくめた4人分の夕食の食材が、冷蔵庫のなかにあったかどうか思い出せない。額に汗がにじんでもぬぐえない。
まっすぐ前を見ながら大きく息をはくと、肺のおくにわずかに残っていた南半球の空気が、全部でていったような気がした。

作者紹介

星 マリナ

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星新一の次女。東京生まれ。青山学院大学卒。
父179センチ、私173センチ、息子197センチの長身家系。気がつくと、息子が宇宙飛行士の身長制限を大幅にオーバーしているという意外な結末。もっと大きいロケットができるといいなぁという個人的願いをIHIのサイトにこっそり書いてみる51歳。星ライブラリ代表。