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歴史的人物

日本土木史の父、渡邊嘉一

「日本土木史の父」のひとりと称されている渡邊嘉一(以下、嘉一)は、1858(安政5)年2月8日 長野県上伊那郡朝日村字平出(現 辰野町)に生まれた。6歳で三澤源三の塾で学び、松本の開智学校に1年在籍後、上京。1882(明治15)年、24歳の時に 海軍機関総督横須賀造船所長である渡邊忻三の養子となった。翌1883(明治16)年、25歳で工部大学校土木科(現在の東京大学工学部)を首席卒業、工部省の技師として鉄道局に勤務することになる。翌年、工部省を辞してイギリスへ渡航、グラスゴー大学へ留学し、土木工学を専攻した。1886(明治19)年、28歳で土木技師と理学士の学位を取得、同時にウォーカー賞を受賞、同大学を卒業する。同年5月、ファウラー・ベーカー工務所技術見習い生となり、後に技師へ昇格。続いてフォースブリッジ鉄道会社の工事監督係になる。そして、「フォース橋」前後の鉄道線路 約12マイルの実地測量と設計主務を務めた。


渡邊嘉一


嘉一が関わった「フォース鉄道橋」の歴史的背景

イギリスの産業革命は、18世紀後半から世界に先駆けて始まった。しかし生産活動最大の弱点は、道路と運河にしか選択肢がない交通の不便さにあった。当時、道路は馬車で時間を要し、運河は冬の凍結と夏の渇水のためにすこぶる不便で、速く・安く・安全な交通機関が待ち望まれていた。その中で蒸気機関の発明により鉄道が登場。この発達に伴い、橋梁の技術も向上していった。
ヴィクトリア女王全盛時代、首都エディンバラから東北に通じるスコットランド東岸に、一大鋼橋の架設が計画された。東岸の二つの入り江。一つは「テイ橋」が架かったテイの入り江、もう一つがフォース入り江である。約1kmに及ぶ幅を持つその入り江に「フォース橋」が架けられることになった。
この「フォース橋」の主任技師は1877(明治10)年に完成した「テイ橋」建設の成功により名声を博していたトーマス・バウチ。しかし、完成から2年後の1879(明治12)年、旅客列車通過中に強風で「テイ橋」の橋桁が吹き飛ばされ、75名の死者を出すという大事故が発生した。事故発生からバウチは苦悩し、その10ヵ月後、失意のうちこの世を去ってしまう。
「テイ橋」崩落事故により、バウチ設計案を却下せざるを得ず、代わりに依頼を受けたのが、ジョン・ファウラーとベンジャミン・ベーカー。彼らが「フォース橋」の新たな設計を担当することになった。
まず、ファウラーとベーカーは、「テイ橋」崩落事故の教訓を活かし、吊橋は風に弱いと判断。「フォース橋」の橋梁形式をカンチレバー式二重ワーレン型トラス橋に決定、フォース入り江の両岸と中央の岩礁に 高さ105mの3基の大鋼塔を築くという設計計画である。
この設計計画のイメージとしては次の通りである。鋼塔を、橋軸方向に並んだ3人の人間に例え、おのおのの人間が両腕を差し出す。すると腕の長さは207m。両端は、両岸の陸地上に設けた橋脚の上に置くことが可能でも、両岸と岩礁の間は500m余あり、海上の部分は互いの腕が届かない。その間、約100mの空間が残る。その空間を結ぶためにスパン107mのトラスを吊り架けるのである。
1882(明治15)年に「フォース橋」の工事が始まり、5年後の1887(明治20)年には研究者、工事関係者などの前で上述の橋を人間で模した(ヒューマン・モデル)説明を王立科学研究所で行った。それはカンチレバーの構造を周知、理解してもらうためであった。その当時の写真は現在、スコットランド銀行発行の20ポンド紙幣裏面の右上隅に確認することができる。そして3人並ぶその真ん中にいる人物こそ嘉一である。


スコットランド紙幣


東洋人である嘉一が、なぜ中央に載ったのか?

その理由のひとつに、ヒュー・ダグラスの著書“Crossing the Forth”に、“設計者の誰もが極東の恩義を思い出させるように”と、記してある。カンチレバー(ゲルバー)橋のルーツが東洋にあり、東洋の恩義を誰もが思い出すようにという、設計者の粋なはからいによるものであった。
工事は1890(明治23)年に完成。「フォース橋」の海を渡る部分の鋼塔間スパンは、両径間ともに521m。全長はこれに接続する小橋梁を合わせると2.5Kmにも及ぶことになる。

嘉一は、「フォース橋」完成の2年前の1888(明治21)年に帰国。30歳で日本土木株式会社の技術部長となり、明治初期の鉄道建設に貢献。その後、参宮鐡道、北越鐡道、京阪電気鉄道などの要職を務める。北越鐡道の技師長時代には、石油の残滓を利用し、機関車の燃費のよい燃焼器を発明し、特許を取得。1899(明治32)年には41歳で工学博士の学位を得ている。
嘉一が明治後半の日本の橋梁技術に、少なからず影響を与えているエピソードがある。1911(明治44)年、当時の鉄道院総裁であった後藤新平は鉄道橋として関門海峡架橋案をたて、当時の東京帝国大学教授 廣井勇に、この橋の設計を委託した。その一方で、比較案として鉄道トンネルを海峡の下に潜らすことも認めた。廣井は1912(明治45)年に架橋地点の調査を行い、1916(大正5)年に橋梁設計案を作成し、詳細な報告書を鉄道院に提出。そこには、橋の形式は控架(カンチレバー)式、橋梁の長さ2980ft、両横桁中心間隔は80ftとあり、その後の標準軌間への改築を想定して広軌鉄道複線、電車線路複線、幅12ftの通路二条が敷設できるという、当時の日本としては画期的な大構想であった。設計図案は「フォース橋」の影響がみてとれる。しかし、この設計案に軍部の強い反対があった。理由は軍事上、爆破の恐れがあること、軍艦には「菊の御紋」がついており、橋上から平民が軍艦を見下ろすことは許されないということであった。そのため、関門トンネルが実現することになった。
1912(明治45)年に澁澤榮一の懇望で、54歳で東京石川島造船所(現:IHI)の第3代社長に就任。社長職を13年間務め、1925(大正14)年には相談役として3年間務めた。土木学会設立にも参画、帝国鐡道協会会長などにも歴任している。1932(昭和7)年12月4日、74歳で黄泉の客となった。


フォース橋

完成から125年たった2015(平成27)年に「フォース橋」は世界遺産に認定され、その2年後の2017(平成29)年には同じフォース湾に新たな「クィーンズフェリー・クロッシング」という橋が完成した。
嘉一没後85年の朗報である。橋に歴史があり、歴史の中に橋があったのである。

(監修:三浦基弘)

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