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歴史的構造物




通天閣

通天閣の夜景

将棋の坂田三吉を歌った「王将」に登場する通天閣は、通称新世界と呼ばれる繁華街のど真ん中に建つ。
現在の通天閣は二代目で、初代通天閣は、第5回内国勧業博覧会跡地オープンした「ルナパーク」の入り口に建てられ、大阪の名所として多くの見物客を集めたが、戦時下の金属供出令で解体され、シンボルを失った新世界は戦後さびれた。
そこで、地元新世界の商人たちが、往年の賑わいを取り戻そうと資金を出し合い、建設したのが現在の通天閣である。
再建となった通天閣は高さ103m、当時わが国の建物の高さ制限は31mだったため、阪神間はもとより遠く瀬戸内海に浮かぶ淡路島も見ることもできた。
全体工事は奥村組が請け負い、当社は鉄骨全量(691t)を製作した。
使用鋼材は山形鋼(アングル)など形鋼が主で、すべてリベット接合である。 部材は曲線加工する技術がなく、部材のつなぎ目(節点)で少しずつ角度をつけて組み立てた。
コンピュータがなかった当時、まず関係者が苦労したのは立体的な三次元のポイント計算だった。
多数の節点の位置と斜めに取り付く部材の角度を手計算で行った。計算にもとづいて部材ごとに工作図を描くが、同一部材がほとんどなく、大量の図面が作成された。
加工は慎重を期し、出荷前に仮組立も実施した。にもかかわららず、地上10mまで建方が進んだ段階で大問題が起きた。
主柱の1本が2cmばかり内側へ倒れ込んでいることが判明したのである。
建て起こす必要があったが、すでに下から順次、リベットを打設していた。周囲は繁華街で、重機を持ち込むスペースもアンカーを設置する場所もなく、最悪の場合は打設したリベットを切断して一旦解体し、立て直す事態も考えられた。
この時、鳶職を采配していた嶋田雪雄は、現場から20mばかり離れた路上にある下水道のマンホールに目をつけ、マンホールの底にアンカーを打ち込み、倒れた柱にワイヤーをかけ、ウインチで引き起こした。
嶋田雪雄は、古くから当社に出入りする大西建設配下お鳶職で、のちに大阪万博で「シンボルタワー」の建て方を手がけ、鳶職として初めて叙勲の栄誉に輝くが、常日頃「作業中に落ちるような奴は鳶ではない」と豪語する名物親方だった。


東京タワー

東京タワーはパリのエッフェル塔を模してつくられたが、その高さ333mはエッフェル塔よりも13m高く、自立鉄塔として世界一だった。世界有数の地震国で、台風の多い日本にエッフェル塔を超える塔を建て、しかも、使用鋼材(3700t)はエッフェル塔の約半分で工期(18か月)も半年以上短く、日本の技術力を世界に示した。
新聞によると建設計画が発表された当時、専門家の一部に「果たしてできるか」と疑問視する声があった。
「所定の工期内に要求される精度・品質のものがつくれるか」、社内にも危惧する空気があったと関係者は語る。
竹中工務店が全体工事を請け負い、当社と新三菱重工業(現三菱重工業)が鉄塔の製作にあたった。
当社が製作したのは、地上から140m(第一展望の約10m上)までの2861t、総重量の約75%である。
工事担当者は先に施工した通天閣の関係者にアドバイスを求めた。
工作図作成にあたっての計算作業や作業枚数は、通天閣をはるかにしのぐ膨大なものとなった。
部材の形状が立体的に理解できるよう、原寸図は多面で詳細に描く必要があった。
また、原寸作業の段階で、建方の順序・方法を考えなければならなかった。
加工にあたっては各作業班の責任者を集め、構造全体の内容、各部材の位置と働きを説明し、各班の作業と次工程との関係について周知をはかった。特に、主柱の現場継手部はメタルタッチを要求された。
そのため、部材を組み立て、リベットは全数検鋲し、基準に外れたリベットは切断して打ち直した。
また、塗装の仕上がりを均一化して防錆効果を高めるため、一次加工を終えた部材は組立直前にショットブラストを行い、鋼材表面の錆や黒皮を完全に除去し、一次プライマーを塗布した。

建設中の東京タワー

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