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30年前のデジタル世界

技術開発本部 河合理文   

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少し前に「DX(Digital Transformation)の30 年後を想定してこれから会社としてとるべきアクションを考えよ」という業務があった.この種の調査や予測ではもちろん今後のことに想像をたくましくするが,ではさかのぼって30 年前はどうだったのか,この30 年間はどのように変わってきたかを振り返ることが役に立つと考えた.

まず,筆者の専門で科学技術系ITの主戦場でもあるCFD(流体シミュレーション)を含めたスーパーコンピューティング分野の30 年前と現在の姿を概観してみる.なお,30年前にはITという言葉は聞いたことがなく,「電算化」などと呼ばれていた.

写真は,1992 年(平成4年)に天皇陛下(現上皇陛下)が当社に行幸された際に,シミュレーションの最先端の技術・装置 ( EWS ) としてご説明したもの.右側のパネルは当時世界各国で精力的に研究開発が進められていたスペースプレーンの流れ解析.出典:社内報「あい・えいち・あい」1992年7月号より

科学技術系ITの30 年前

  • ベクトル型スーパーコンピュータのほぼ全盛期.アメリカのCRAY-1が先鞭(せんべん)をつけ,国内でも各社が販売して,主要大学や大手企業がそれぞれ保有.IHIでもVP-50という機種を導入し,筆者を含む技術計算の担当者がプログラムの「ベクトル化」(並列化ではない)に励んでいた.
  • 流体計算の計算格子の点数は10 万からがんばって100 万点.
  • UNIXベースのEWS ( Engineering Work Station ) が入り始めた.WindowsベースのPCとは別の世界であり,vi(UNIXの標準エディター)などという職人技を覚える必要があった.
  • 各事業所の端末からスーパーコンピュータ(豊洲)への接続はもともと事務計算用に確保されていた社内専用回線.そこから後処理用のEWSへのデータ転送は電話回線.バイナリーデータが通信で化けないように,わざわざテキストとして書き出して送っていた.世界最高峰のヨットレース「アメリカズ・カップ」の1992 年大会に国内から初めて参戦することになり,IHIでは船体回りの流れ計算を行った.このとき使ったスーパーコンピュータは株式会社リクルート(新橋)のものであり,計算格子のファイルや計算結果をわれわれのコンピュータ(横浜)とやりとりするには,磁気テープの宅配便を使った.
  • 計算結果のグラフィック表示もできるようになってきたが,最初は専用のシステム,のちには上記EWSが必要.画像を保存するには,ディスプレーの前に三脚を立ててフィルムカメラで直接撮影してスライドを作るか,ごく低速のカラーハードコピーを取る必要があった(電子的保存は不可能).

このころのやり取りで次のようなことを覚えている.技術開発本部の「材料調査団」( 1990 ) という活動で,筆者が社内の材料の専門家に「計算材料工学」のようなものは考えないのかと尋ねたとき,「材料は引っ張ればわかる,引っ張らなければわからない」という返事を受けた.その調査のために訪問した欧米の一流研究者も似たような雰囲気を示していた.

科学技術系ITの現在

  • 国の設置したスーパーコンピュータ「富岳」運用中.158 976のノード(≒CPU)からなる並列型計算機.
  • 1 億点規模の流体計算が普通に語られている.ただし流体分野では,いつでもそのときの計算機性能に合わせて「一晩で終わる」規模,複雑さの計算が行われるという風土があるので,「速くなった」という実感には乏しい.
  • 30 年前は流体と構造が多くを占めていたが,それ以外の分野,特に計算力学でない分野も盛ん.材料分野も主要なテーマ.最も元気なのは生物・化学系かもしれない.
  • キャパシティコンピューティング(多量の計算を流すこと)が可能になり,多量の結果の可視化,最適化や進化計算が可能になった.
  • 従来はデータ = 計算結果だったが,意味のある情報源・情報群となり,それ自体の中を探索する価値があるようになってきた.
  • データ通信はインターネット.
  • スーパーコンピューティングはHPC ( High Performance Computing ) と呼ばれるようになってきた.
  • ただし,富岳のようなHPCにAIとかデータとか言い出したのは,少なくともポスト「京」( = 富岳)の検討活動が始まってから,すなわちせいぜいこの7,8 年であることに注意.

こうしてみると,スーパーコンピューティングの分野は,工業製品が速くて大きくなるという正常進化だったと総括できる.

一方,DXの基盤となるIT/ICT/プラットフォームについては30 年前は現在とまったく異なる状況であった.

IT/ICT/プラットフォームの30 年前

  • 「GAFAM」で存在していたのはAppleとMicrosoftのみ.どちらもスタンドアロンのPCのハード,ソフト ( Mac,Windows ) を作っていた.
  • 社員個々のPCは基本的に無し.
  • 大企業(IHI等)向けのNTT専用回線はあってもインターネットという概念は無かった.
  • 電子メールもなかった.社内の連絡は固定電話または紙メール(連絡票).ファクスも使われていた.
  • 「ネット上で何かを検索する(ググる)」という概念は当然無かった.JICST(日本科学技術情報センター)のJOISという論文検索システム(電話回線ベース)を図書室で使うことができた.
  • インターネットを基盤としたあらゆるサービス,プラットフォームビジネスは当然存在しなかった.
  • IoTに当たるものはアナログのデータレコーダーか初期のデータロガー,あるいは直結の専用コンピュータか.当然ながらオフラインでデータを回収する必要があった.なお,もちろんプラント類には大規模なデータ収集表示機構があった.

IT/ICT/プラットフォームの現在

これは筆者が書くまでもないだろう.数年前からAIというものが猛烈な勢いで普及・発展し,「AIで仕事がなくなる」と叫ばれて賛否の議論が飛び交っているが,おりしもこの2023 年の頭ごろから自然言語生成モデルによるチャットボット「ChatGPT」が一気にブームとなり,教育をはじめとして世界を変えるのではないかとさらに叫ばれるようになってきた(この記事を書くのには使っておりません.念のため).

これからどうなる

では30 年後のDX,というかデジタル技術をめぐる社会の姿はどのようになるのであろうか.

技術計算・HPC分野では引き続き正常進化が進むだろう.現在は量子コンピュータの黎明期であり30 年後の様子は見通せないが,IHIで必要とするような多くの技術計算で従来型の計算機にとって代わることは想像しにくい.

一方,計算を離れた分野でどうなっていくのか.この30 年間で起こったインターネットを中核とした大変革のようなものがまた起こるのかどうか,予想がつかない.

「UberやYouTubeの登場以前には,それらを定義することはできませんでした.2000 年代のYouTube登場前に『YouTubeの事業計画書を書いてください』と言われても無理なのです.」

落後しないようにしながら,楽しみに眺めたいと思う.そして万が一30 年後にチャンスがあれば,また今を振り返って箸休めを書いてみたい.